鄒衍と古代中国医学

 一昨日のことですが、小生の参加する学会において「なぜ古代中国医学・鍼灸医学に陰陽五行論が取り入れられたのか」という質問を受けました。その時は専門家が相手なので簡単に説明しましたが、面白い質問なのでここでも少しまとめておこうと思います。

 まず陰陽五行論を完成させ世に広めたのは、鄒衍(BC305-240年)であると言われています。彼の著作『鄒子終始』五十六篇と『鄒子』四十九篇が漢代までは残されていたことが分かりますが、今では失われてしまい、その思想を直接知ることはできません。

 しかし司馬遷が『史記』孟子・荀卿列伝に鄒衍の思想を書き残してくれたおかげで、それを簡単に知ることができます。以下にその一部を引用してみます。



鄒衍は当時の君主たちがますます奢侈にふけるのを目前に見て、『詩経』大雅に見える「まず身近をおさめ、庶民におよぼす」というごとき徳行を第一とするのではだめだとおもった。そこではじめて陰陽の気の増減の理を深くさぐり、神秘的な物の変化および大聖人の終りと始めに関する諸篇十余万語の書を著わした。

かれの表現はおそろしく大きく信じ難いほどであったが、まず小さな事物を証拠とし、そこから推しひろめていって、無限のかなたに達する。最も近い世を系統づけ、そこから黄帝の世にまでさかのぼる。それは学者たちが誰しも例にひくことであるが、さらに当時の盛衰の大体を論じ、それにつけて吉凶の前兆や制度を記載し、それを遠くまで推しひろめて、天地の生ずる以前、暗黒でたずねるすべもない時に達するのである。

〔同じ推論の方法によって〕中国の名山・大川・通谷、鳥獣、陸地と水中に繁殖する物、特に珍奇な種類などから始め、それを推しひろめ、海のかなたにあって常人の目にみるよしもない物に及ぼし、天と地が分離してこのかたの五行(木火土金水の五つのエレメント)の徳の支配の移りかわり、それぞれにしかるべき政治制度があって、そのきざしとなる瑞応はこうだ、というふうに実例をあげて説いた。

かれの考えでは儒者のいう中国とは、天下(世界) の中では八十一分の一にあたる大きさにすぎない。中国はこれを名づけて赤県神州とよぶ。赤県神州の内にもそれみずからの九つの州がある。禹王によって秩序だてられた九州がそれである。それは〔大きな意味での〕九州の数にははいらない。中国の外に赤県神州と同じくらいのが九つある。それらこそがかれのいう九州である。それに対し裨海という海がとりまいていて、〔そこに住む〕人民や禽獣は〔他の州へ〕ゆききすることは不可能で、一つの独立の世界をなすようにみえるのが、一つの州なのである。このような州は九つあって、それから大瀛海のわだつみがそれらの外をとりまく。〔この大海が〕天地の際めなのである。かれの述べるところはすべてかくのごときたぐいであった。

けれども説の帰着するところをおさえてみれば、必ず仁義と節倹、君臣上下、六親たちに対するやりかたにつきる。その説き始める方法があまりにも広大であるにすぎない。 王侯大人は、かれの述べることを聞いた当初は、びっくりし心をうばわれてしまうものの、あとではとても実行できない。それゆえ鄒子は斉において重んぜられ、梁へおもむくや、恵王は都の外まで出迎え、上客として扱ったし、趙におもむいたとき、平原君はうやうやしく身をそばめて案内し、みずから座席の塵を払い、燕へ出かけると、昭王は彗をかかえて先だちとなり、弟子の座につらなって教えを受けたいと願い、碣石宮を築かせ、そこへ住まわせて師とし、王はかよって学んだ。〔ここでかれの著書中の〕主運の篇が作られた。

かれがまわって歩いた諸侯から尊敬されたことは以上のごとくで、仲尼(孔子)が陳と蔡のあたりで餓えにせまられ、孟軻が斉と梁において苦しみをなめたのとは、まるで違っていた。

もともと武王が仁義によって紂を伐って王となったとき、伯夷は餓えても周の粟(穀物)を食べなかったこと、衛の霊公が戦陣の法を問ったとき、孔子が答えなかったこと、梁の恵王が趙を攻めようと謀ったとき、孟軻は大王(周の文王の祖父、古公亶父)が邠を去った故事をひきあいとしたこと。これらは世俗におもねり人のきげんをとるだけを目的にしたであろうか。四角な木のほぞを円い孔におしこもうとしたって、はいるものであろうか。

が、次のように言う人もある、「伊尹は鼎をせおって行ったが、〔殷の〕湯王をはげまして王者とならせたし、百里奚は荷車につけた牛にかいばをやる身であったが、〔秦の〕繆公はかれを任用して覇者となった。まず相手の心にかなうようにして、それからおもむろに大きな道理へいざなったのだ。鄒衍のことばはなるほどけたはずれの奇怪さでみたされるようだけれど、ひょっとすると牛や鼎のひと(百里奚と伊尹)の意図に似たものであったかもしれないのだ」。

(小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳)



 というように鄒衍は儒家的色彩の濃い「仁義と節倹、君臣上下、六親たちに対するやりかた」を広めるためにスケールの大きい学説を作り出しました。このスケールの大きさと、(『呂氏春秋』応同篇により詳しく残されている)「五徳終始説」という政治思想が、各地の王侯大人をとりこにしました。

 なぜなら時代は戦国時代も後期、小さな国々はどんどん大きな国に滅ぼされてゆき、大きな国々はますます大きくなっていきました。この戦争で混乱続きの中、どのように国を維持していくべきか、また天下をどのように統一するかということがそれぞれの国家の最重要問題だったからであり、鄒衍の思想はそこを上手についていたのです。

 そして紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝も鄒衍の思想に影響されていました。鄒衍の思想は当時の政治的支配者層、権力者たちの信仰を得ていたようですね。そしてこの時代がまさに現代まで受け継がれる中国医学の誕生する時代です。

 ところで話はかわり、太平洋戦争が終戦をむかえると、アメリカのGHQは日本に対して鍼灸は野蛮であるので廃止するように要求したようです。しかし鍼灸は盲人の職業でもあったこともあり、鍼灸業界はそれを継続できるように努力しました。そして鍼灸を(いわゆる)「科学化」しようとする動きが活発になりました。つまり「鍼灸が効くわけ」を自律神経や血流などで説明しようとしました。

 ここで気づくことは、伝統医学の中に陰陽五行論を取り入れたことも、科学を取り入れたことも、理由は同じです。政治の権力者が信仰している思想に合わせて、医学が淘汰されないように進化したのです。

 戦国時代の医師の地位は高くなく、王侯貴族の治療を成功させれば富貴を得ることができましたが、失敗すれば殺されてもおかしくありませんでした。陰陽五行論を信じている人々を治療する前には、自分がこれから施す治療を陰陽五行論で説明する必要性が生まれます。(科学を信じている人々を治療する前には、自分がこれから施す治療を科学で説明する必要性が生まれます)

 当時の医学が政治の権力者を相手にしていたことは、医学書に黄帝を登場させていることや、また『素問』霊蘭秘典論からも分かります。内臓(五臓六腑)の働きを説明するのに「心は君主の官…肺は相傅の官…肝は将軍の官…」というように政治的な官職名を使っているのですから。これはレトリックにおけるメタファーですよね。納得させるべき相手の身近なものに置き換えて説明する手法です。もし商人(アキンド)を説得することになったら「心は主人…肺は番頭…」などとしても良いのです。

 陰陽五行論と(いわゆる)科学のどちらにしても、病気や治癒の経過を高い精度で知ることができる理論がより優れています。治せるか否かはまた別の問題のようですね。

(ムガク)

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2009-08-25  はちみつブンブンのブログ より