トキワ荘・マンガの聖地:近隣の見どころ・観光


トキワ荘

マンガの聖地

〒171-0052  東京都豊島区南長崎3-16-6

画/鈴木伸一

 トキワ荘は、かつて日本のまんが、アニメの黎明期を作り上げたまんが家たちが若かりし頃に集ったアパートです。「漫画家の梁山泊」や「マンガ荘」というアダ名もありました。

 手塚治虫や寺田ヒロオ、 藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、鈴木伸一、 森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、などがその住人でした。

 現在の東京都豊島区南長崎三丁目(住居表示16番6号、完成当時の住所表記は豊島区椎名町五丁目2253番地)に1952年から1982年にかけて存在した木造モルタルの二階建てです。

 賃貸された部屋は二階にあり、全十室、全て四畳半でした。共同の炊事場、便所などがありましたが、風呂はついていませんでした。

鈴木伸一『トキワ荘物語』

 便所は二階の階段の突き当たり、炊事場の隣でしたが、トキワ荘に出入りしていた講談社の丸山昭は、三~四歳の男の子が、
「かあちゃん、痛いヨー。目が痛いんだヨー」
 と泣いているのを見たことがある、と言っています。(丸山昭『トキワ荘実録』)

 便所は汲み取り式で、ツボが一階の床下にありました。便がはねて飛んでくる心配はありませんでしたが、アンモニアと蛋白質の分解した刺激臭がきつかったようです。

横山孝雄『トキワ荘(傍役)物語』

 手塚治虫は二階の自分の部屋の窓から外におしっこをしていたようですが、「窓の下に青カビがはえた」と、苦情を言われたようです。

手塚治虫『トキワ荘物語』

 風呂がついていなかったので、石ノ森章太郎や赤塚不二夫は、共同の炊事場の流しの蛇口を開けて水ブロにしていました。また、近くに鶴の湯という銭湯があったので、トキワ荘の住人はそこに通いました。

あかつかふじお『トキワ荘物語』

 住人は漫画家だけではありませんでした。一般の人もいましたが、トキワ荘のヌシはナンキンムシやダニ、ゴキブリたちでした。部屋を閉め切って殺虫剤でやっつけようと試みたようですが、壁のすき間から隣の部屋に逃げ込み、おさまるとまた戻ってくるため、彼らと縁を切ることはできませんでした。

 特に、石ノ森章太郎の部屋は、テレビやテープレコーダー、8mm映写機、扇風機、ステレオ、レコード、本や万年床など、足の踏み場もないほど、さまざまなガラクタがたくさんあったため、それらの巣窟になっていたそうです。

水野英子『トキワ荘物語』
石ノ森章太郎『トキワ荘物語』

 家賃は前払いで月、三千円、敷金が三万円、礼金は三千円でした。一ヶ月の食費が三~五千円の時代です。

 ちなみに、鶴の湯の入浴料は十五円、松葉のラーメンは四十円でした。映画のロードショーは百五十円、外国のアーティストの公演、アート・ブレーキーやモイセーエフ・バレエ団などの入場料が三千円くらいでした。(赤塚不二夫『これでいいのだ』)

 赤塚不二夫が移転したトキワ荘の近所のアパート、紫雲荘は同じ四畳半で月、四千五百円、鈴木園というお茶屋の二階、六畳と二畳の二間の家賃は一万二千円でした。(赤塚りえ子『バカボンのパパよりバカなパパ』)

  石ノ森章太郎が「漫画少年」に連載していた『二級天使』の原稿料は一枚あたり七百五十円でした。それではかわいそうと、のちに「少女クラブ」では千円になりましたが…。(石ノ森章太郎『トキワ荘・春』)

 トキワ荘の南側の裏手には非常階段に通じる小さなベランダがありました。東京はまだ高い建物も、灯りも、スモッグも少なく、東京タワーは骨組みが半分ほど出来上がっているだけでした。まだ、夜の星々は降るように美しかった時代でした。

 石ノ森章太郎と赤塚不二夫は、ハインラインやシェクリイ、レイ・ブラッドベリなどのSF小説作家に影響されて、このベランダで、毎晩、二時間交代でUFO探しに夢中になったそうです。夏には虫の声を聞きながら、ベガやアルタイル、白鳥座など夏の大三角を眺めていたことでしょう。

 当時、西武池袋線の椎名町駅から練馬駅にかけて、まんが家がたくさん住んでおり、「まんが家は練馬に住むべし」みたいな雰囲気があったと言います。

 手塚治虫は、昭和二十七年(1952年)新宿区四谷にある八百屋の二階に下宿していましたが、昼夜とわず編集者たちが出入りするわ、原稿取りを争って大声をだすわで、大家さんはめいわくして困っていたところ、漫画少年の編集をやっていた加藤謙一の息子がトキワ荘を探してきて、移転しました(1953年正月)。

 それを皮切りに、トキワ荘には寺田ヒロオ、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、鈴木伸一、 森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、などが続々と入居してきました。

寺田ヒロオの部屋 トキワ通りお休み処の二階に再現されている

 昭和二十九年に「新漫画党」が誕生しました。初期メンバーは、寺田ヒロオ、藤子不二雄、坂本三郎、森安直哉、永田竹丸で、会合は月に三回、トキワ荘で行われ、会費は月に百円でした。

 その後、メンバーが入れ替わり、寺田ヒロオ、藤子不二雄、鈴木伸一、つのだじろう、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二となりました。  

 トキワ荘の黄金時代のメンバーは1961年ころには引っ越していなくなり、その後、トキワ荘は、1982年には老朽化のために、取り壊されました。

トキワ荘の主な居住者(居住期間)

手塚治虫(1953年(年初)~1954年10月)
寺田ヒロオ(1953年12月~1957年6月)
藤子不二雄(1954年10月~1961年10月)
鈴木伸一(1955年8月~1956年6月)
森安なおや(1956年~同年末)
石ノ森章太郎(1956年~1961年末)
赤塚不二夫(1956年8月~1961年10月)
水野英子(1958年3月~同年10月)
よこたとくお(1958年~1961年) 

トキワ荘に出入りしていた主なまんが家

長谷邦夫
永田竹丸
つのだじろう
坂本三郎
しのだひでお
園山俊二
つげ義春
横山孝雄 

 1982年にトキワ荘は改築され、2LDK、六畳二間にバス・トイレ付になりました。二階建てアパートは入り口に赤塚不二夫の描いた「トキワ荘」の看板を掲げていましたが、それも現在では取り壊され、その跡地には日本加除出版の社屋が建設されています。その脇には平成24年に石造りのモニュモントがつくられました。

トキワ荘跡地 豊島区南長崎3-16-6

トキワ荘跡地モニュメント 平成24年3月吉日 トキワ荘通り協働プロジェクト・豊島区

 また近くの南長崎花咲公園にも記念碑「トキワ荘のヒーローたち」が設置されています。

記念碑「トキワ荘のヒーローたち」二〇〇九年四月吉日
豊島区 トキワ荘記念碑設置実行委員会
手塚治虫、寺田ヒロオ、 藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、鈴木伸一、 森安なおや、
石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、のサインとポートレイト
南長崎花咲公園 豊島区南長崎3-9-22

 トキワ荘近所にある子育地蔵尊は宝永七年(1710年)に立てられたと伝えられています。手塚治虫の『トキワ荘物語』にも描かれました。

子育地蔵尊 豊島区南長崎2-3
手塚治虫『トキワ荘物語』

 藤子不二雄Ⓐの『まんが道』で有名な中華料理店・松葉は健在です。現在も美味しいラーメン・ワンタン・タンメンなどを食べることができます。(ボリュームもあってうれしい)

松葉 豊島区南長崎3-4-11
藤子不二雄Ⓐ『まんが道』
藤子不二雄Ⓐ『まんが道』


 寺田ヒロオの『背番号0』の主人公ゼロが所属するZチームのホームグラウンドは、トキワ荘近くにあったグラウンドがモデルです。現在は新しくきれいに生まれ変わり、南長崎スポーツ公園になっています。


 時々、高校時代まで野球の選手だった寺田ヒロオを中心に、トキワ荘の新漫画党エラーズは他のグループチームや編集者チームと草野球をしたのは、哲学堂という公園の球場でした。石ノ森章太郎も下駄でプレーしたそうです。鎌倉や豊島園に遠征にいくこともありました。

哲学堂公園の球場 東京都中野区松が丘1-34-28


 平成25年には、トキワ荘跡地近くに休憩・案内施設「豊島区トキワ荘通りお休み処」が開設されました。1階ではトキワ荘関連本・貴重なマンガの閲覧ができます。関連グッズ販売やイベントも行っています。2階はトキワ荘に関する展示コーナーであり、寺田ヒロオの部屋を再現してあります。

豊島区トキワ荘通りお休み処 豊島区南長崎2-3-2
お休み処で販売している「チューダーあめ」
寺田ヒロオの発明、ショウチューのサイダー割「チューダー」をイメージしたあめ。
お酒は入っていないので子供でもなめられます。昭和のなつかしい味。

 トキワ荘通りお休み処の入館は無料です。「チューダーあめ」は100円。水野英子の絵ハガキなども販売しています。

椎名町駅南口にある散策マップ



トップページ

東京都豊島区千早4-2-6 星野コーポ301