熊谷守一美術館:近隣の見どころ・観光

 豊島区千早二丁目の入り組んだ住宅街の中に、熊谷守一美術館があります。静かな存在感。館に入る前からその作品に触れることができます。

 熊谷守一だけでなく、熊谷榧や他の芸術家の作品も見ることができ、また、守一愛用のチェロやイーゼルなども展示されています。絵画の好きな方、またはこういう雰囲気の好きな方にはオススメです。

 
 

(パンフレットより)

 明治維新まもなく1880年(明治13年)に生れ1977年(昭和52年)に亡くなった守一は、日本の今に何を残したか。美校時代はセピア色にくすんだアカデミックな絵を描き、東京に上京した頃は描きなぐりのようなフォーブ調の絵を描いていたが、敗戦前後から画面をはっきり線で区切り、面を平塗りする画風に変わった。はやりの画風に惑わされることなく独自の世界を貫いた。

 人物や風景画も多いが、晩年は狭い庭いこもって、やって来る虫たちや猫や鳥などを描く。花も花瓶にさしたものよりも地面に生えた草花が多い。最晩年「朝のはぢまり」「夕暮れ」のように同心円を重ねた絵は一見抽象画風だが、具象画をつきつめて行ったものと思う。守一は世の中と身の回りのものをじっと見つづけて表現した絵かきだったのだろう。

 守一がなくなるまで45年住んだこの地に、1985年(昭和60年)二女の私が私設として設立し、2007年に豊島区に守一作品153点を寄贈して豊島区立熊谷守一美術館となった。

館長 熊谷 榧



熊谷守一 略歴

1880年 岐阜県恵那郡付知村(現中津川市付知町)に生まれる。父・孫六郎は後に初代岐阜市長となるが、この頃は製糸工場を営んでいた。

1897年 中学3年で上京し、正則中学に転校する。

1900年 父の反対を押し切り、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科選科に入学する。同期には青木繁、和田三造、山下新太郎、有島生馬らがいた。

1902年 父の急死により、家業の倒産にあう。

1904年 東京美術学校を卒業する。

1905年 2年ほど樺太漁場調査船に写生係として加わる。

1909年 第3回文展(文部省美術展覧会)に「蝋燭」(岐阜県美術館所蔵)を出品し褒状を受ける。

1910年 田舎の生母の死を機に帰郷し、6年ほど郷里で過ごす。うち二冬は日傭(材木流し)の仕事をする。

1915年 美校時代の友人らの勧めで再上京する。。二科会の会員となり、1942年まで二科展への出品を続ける。二科会の研究所が出来てからは毎週講師として出かける。

1922年 「某婦人像」(当館所蔵)の大江秀子と結婚する。

1923年 長男・黄が生れる。2年後に次男・陽が生まれ、その翌年には長女・萬が生まれる。

1928年 陽が肺炎で急死する。陽の枕元で「陽の死んだ日」(大原美術館所蔵)を描く。

1929年 二女・榧が生まれる。その2年後、三女・茜が生まれるが翌年には病死する。

1932年 長く東中野の借家に住んでいたが、豊島区の長崎町(現・千早)に秀子夫人の実家の援助で家を建て、終生この地に住む。

1937年 奈良の二科会会員の世話で大坂・名古屋で墨絵(毛筆画)の初個展を開く。

1940年 銀座・日曜画廊で最初の油絵の個展を開く。

1944年 軍の命により二科会が解散する。戦後再開されるが参加せず、二紀会に数年在籍するが無所属となる。この頃名古屋のコレクター木村定三氏の後援で、十数年にわたり毎年個展を続ける。次第に絵が売れるようになる。

1964年 パリのダビット・エ・ガルニエ画廊で個展を開く。その後ますます守一の絵が世に知られるようになる。

1965年 文化勲章の内示を辞退する。

1977年 8月1日、千早の自宅で家族に看取られ亡くなる。享年97歳。





「アゲ羽蝶」1976年(油絵・絶筆)
「木小屋」1966年(油絵)

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熊谷守一美術館

東京都豊島区千早2-27-6
03-3957-3776